三島由紀夫インスパイア映画「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」

with コメントはまだありません

なんとなく、アカデミー賞を取った映画は見たくないというへそ曲がりなところがあって、今年のアカデミーで受賞しまくったバードマンも避けていた。

ところが、「スーパーバッド 童貞ウォーズ」や「アメイジング・スパイダーマン2」、「小悪魔はなぜモテる!?」に出ている、ミラクニスと並ぶ近年のトップ女優「エマ・ストーン」が出ていると聞いて、へそ曲がりもどこへやら、早速観てみた。

これが素晴らしかった。

「おとなのけんか」や最近の富野アニメを思わせる、連綿と続く会話と長回しが、まずはストンと僕のツボを押さえるし、メタ視点を更にメタから捉えたような多層的な構造も面白い。

これは、映画好きな友達と観に行ったあと、ちょっと気の利いたモノをつまみながら感想を言い合いたかったな。往々にして、へそ曲がりは損なものである。

 

忙しすぎる長回し、Yesだね!

長回しというと、カメラを据えて、定点でそのシーンを捉えるという撮り方が多いけれど、このバードマンの長回しは動く動く。

一見してわからないところでカットを区切っているのか、準備に準備を重ねて一発撮りしているのか、「一体どうやって撮ったの!?」と驚くほど巧みな長回しを観せてくれる。

元バードマンの主人公=リーガン・トムソン(マイケル・キートン)が企画したブロードウェイ舞台のリハーサルと、その舞台裏のシーンをメインに物語は語られ、その中を動くキャラクター達を途切れないカットによってカメラが追う。

リーガン・トムソンを追っていたと思ったら、挑戦的な若手俳優マイク・シャイナー(エドワード・ノートン)にフォーカスしていて、そうかと思えば夜更けと夜明けを捉える定点カメラになり、カメラのズームが解かれていくとそこは別の場所と、文章で伝えるのも忙しすぎる長回しが繰り広げられる。

長回しというと、カメラが動かず、ともすれば退屈なシーンになりがちなのを、この映画の長回しはその逆で、カメラワークだけでちょっとお腹いっぱい。

「そうきたか!」みたいなカメラワークの妙につられて、会話を聞き逃したりもした。

でもこの忙しさはネガティブではなく、ある意味ワイルド・スピードに通じるような、純粋に映像としての楽しさを見せてくれる。

 

映画人をディスる演劇人

リーガンは、その昔「バードマン」というヒーローもの映画で一時代を築いた映画人。

しかしそれも過去の話で、大変に落ちぶれた姿を見せてくれる。リーガンの脳内バードマンが、「リアリティ番組に出ておけばよかったな」と言うところは、「マジでこういう元有名人いるよな!」と爆笑した。

そんなリーガンが再起をかけて挑むのが、本作の劇中劇として演じられる舞台。

元映画人が、複雑で難解な原作の舞台を、脚本 演出 主演に渡って仕切ることから、四方八方からディスられることしきり。

特に、タビサというおばちゃん批評家の批判が辛辣すぎて、観てるこっちが泣きそうになるので、引用しておこう。

あなたや映画人が大っ嫌いなのよ。

特権意識が強く、利己的で甘ったれ。

ロクに芝居の勉強もせず未熟なままで、真の芸術に挑戦する。

アニメやポルノを作っては賞を譲り合い、週末の興収で作品評価?

ここは演劇界よ。脚本 演出 主演を務め、自己満足に浸ろうなんて私が許さないわ。

「脚本 演出 主演を務め〜」って、現実に思い当たる映画人が何人もいるな。クリント・イーストウッド、ウディ・アレン……。

タビサが言うことはあくまで、映画でよくあるスタイルを演劇に持ち込むことに対する批判だけれど、これがそのスタイルや映画人に対してのものだとしたら面白すぎる。だって、「自己満足」と一刀両断してるんだぜ……。

それと、この辛口おばちゃんタビサのシーンで感じたのは、実は演劇界への批判なんじゃないかということ。

演劇界を代表するような役回りのタビサは、このセリフからわかるとおり、映画を演劇よりも下に見ている。まるで、舞台の上にしか本当の芸術が存在しないかのように。

そういう狭い心の演劇界を、タビサの過激なセリフによって逆に批判しているとしたら、映像と同じく手が込んでいるとしか言いようが無い。

この映画は随所にメタ構造の隠れた作品だけれども、このタビサについても、映画人(リーガン)をディスる演劇人(タビサ)をディスる映画人(監督)という構造になっていて、そのお点前に改めて舌を巻く。

主人公の死と復活と葉隠

ほとんど全編を通して、「お前は演劇がわかってない!」と言われ続けるところが可哀想な主人公リーガン。作品が終盤に差し掛かるにつれて、もう笑っちゃうぐらいに酷い状況に追い込まれる。
それというのも、件の俳優マイクが娘(エマ・ストーン!)とイチャイチャしているところを見てしまい、ムシャクシャしてタバコを吸いに劇場を出たところなんかが特にそう。
劇場裏に出たはいいものの、着ていたバスローブがドアに挟まれるわ、そのドアが開かなくなるわで、結局パンツ一丁でブロードウェイの人混みをかき分け、そのまま客席から舞台に戻ることになった。
その醜態はもちろんスマホで撮られていて、Youtubeにアップされて一気に拡散する始末。バイラルがバイラルを呼んで、あらゆる人のFacebookフィードに出てたんだろうな。
この出来事で、社会的に死んだとリーガンは感じた(娘はむしろ、「親父やったじゃん」という態度なのが面白い)。
また、先のタビサがリーガンをメッタメタに乱切りするシーンなど、(観てるこっちは笑えるけれど)本人にとっては辛いことが続き、ついには屋上から飛び降りようとする。
この場面で、屋上から飛び降りたリーガンは、バードマンとなって悠々と空を飛び、非常にリラックスした雰囲気で劇場へ向かう。まるで、今までの困難など無かったかのように。
実はこれはリーガンの精神描写で、現実にはタクシーで劇場まで行っている。
その後、リーガンは演劇史に残る大演技をするのだけれど、ここら辺のお話の作り=死を厭わず、本気で死のうとすることで周囲がアッと驚くことを成し遂げ、運良く生き残るという作りが、葉隠とまったく同じで面白い。
葉隠というのは、三島由紀夫が心酔した書物で、有名な「武士道とは、死ぬことと見つけたり」はこれに載っている。
「葉隠」、それにこれを三島由紀夫が解説した「葉隠入門」は難解でわかりづらい。寝る前の読書に最適な本。
しかしながら、隆慶一郎が、葉隠を剣客商売のようなヒーロー時代劇ものに解釈した「死ぬことと見つけたり」は、その考えがとてもわかりやすく描かれていて、まさに全編、主人公は死んでも構わない→構わないから何でもできる→そうして大きなことをやり遂げ→本人は運良く生き残るという流れで、葉隠の触りの部分を、一流のエンターテイメントとして楽しめる。主人公がほんともう男惚れするほど格好いいのよ。
葉隠をエンターテイメントとして楽しめる作品は、先に挙げた葉隠入門という、超絶技巧を凝らした難解な一冊を書いた三島由紀夫も残している。
「命売ります」という現代を舞台にした小説がそれで、社会も何もかもが嫌になり、自殺を試みた元広告マンが、しかして自殺に失敗し、「必要とも思えない」命を新聞広告に売りに出し、「死ぬことと見つけたり」と同じ道を辿る。
これらの作品に通底しているのは、毎日死のうとすることで、リラックスして毎日を迎えられるようになり、むしろ毎日が充実していくという主人公の姿。
他人との駆け引きで負けることは殆どない。なぜなら、死んでもいいと思っている相手になんか誰も勝てっこないから。
また、そんな主人公の態度に魅せられて、人も集まってくる。
バードマンの最後で、死んでもいいという態度で残した大演技が好評価を受けるのは、殆どこれと同じで面白い。
バードマンの副題である「(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」や、タビサがリーガンに向けて書いた記事などは、リーガンが偶然にも大演技を成し遂げたかのように思わせるけれど、葉隠と通じていることから考えるとこれは偶然ではない。
社会的、実力的に死に瀕し、素直に「死んでもいいや」と思えるようになり、逆に心地いい平安の湯に浸かれるようになったリーガンが残した、必然の演技だ。
全体、死んだって構わないと思っている人による死の演技を越えることなど可能だろうか?
葉隠で説明されている、死を何でもないと捉える考え方、心境が、リーガンにあのような名演をさせたのだと思うと、これは全く偶然ではなく、必然となる。

 

ひっかかる映画

このように、バードマンには様々な見どころがある。

そういう映画は得てして何かひっかかるものを残していく。

「あのシーンの意味はなんだったんだろう?」、「あの不思議なキャラクターは何を言いたかったんだろう?」

そうして言語化されているひっかかりもさることながら、無意識で考えさせ続けるポイントもあるに違いない。

いい映画の定義は人それぞれだけれど、このバードマンのようなひっかかる映画は間違いなくその一つに入る。